一人の人間が、AIの知識を後ろ盾にした論考を社会に投げ込んだとき、そこに何が起こるのか。このブログは、その問いを確かめるための場所です。AIと協働しながら、私がここで何を行おうとしているのか。その考えを記しておきます。
この場を用意した理由
日々の業務や生活の中で、私たちは膨大な情報に囲まれています。
これまで私は、さまざまな利害が絡むビジネスの現場や、不特定多数の方に向けたメッセージの作成などを通じて、「一方の立場から見た正解では上手くいかない」「既存の常識や構造を疑わずして、正解を導くことはできない」ということを学んできました。
そうして身についた疑う姿勢は、仕事の外にも及びました。この世に数多ある由無し事(とりとめのない物事)についても、どこか釈然としないモヤモヤを覚えるようになったのです。
しかし、何か新しい考えを形にしようとするとき、高い壁として立ちはだかるのが「知識」と「時間」です。
どれほどの問いや閃きがあっても、それを形にするには「深い専門知識」と、文章を精緻に組み立てて推敲を重ねるための「潤沢な時間」が欠かせません。その両方を揃えようとすれば、公私のどこかで何かを犠牲にする、つまりトレードオフを覚悟する必要があります。
そうした想いを抱える中、業務を通じてAIの活用に慣れていくにつれ、私は一つの協働体制に可能性を見出すようになりました。自らを原作者兼編集者に、生成AIを作画担当の漫画家に見立てる体制です。
テーマを設定し、問いを立て、インスピレーションを注ぎ込むのは人間の役割です。膨大な知識による裏付け、文章の具体化、論理の推敲はAIの役割です。
この分業によって、専門外の領域であっても、一定のスピードと深さで考えをまとめられるようになりました。
偏りと嘘を極小化する、「複数モデルの相互検証」と「プロセスの開示」
ただし、この分業には、作画担当であるAIに特有の弱点がつきまといます。一つは、もっともらしい嘘(ハルシネーション)を吐くことです。もう一つは、一つの会話が長くなると、ユーザーの意見に過剰に同調してしまうことです。
この罠を避けるため、私はメインで使うGeminiをはじめ、Grokなど思想や前提の異なる複数のAIモデルを組み合わせ、互いの出力を突き合わせて検証するようにしました。
それぞれのAIに個別に問いかけ、スレッドをリセットしながらクロスチェックを重ねることで、文脈の歪みや偏りをできる限り取り除いています。
最後の「トリプルチェック」は、私自身が行います。ところが、私の知識や理解を遥かに超えた領域では、論の妥当性を私一人では判定できない場面も生じます。漫画にたとえるなら、作画が原作者の想定を超えて描き込まれ、原稿の正否を編集者が見極められなくなる瞬間です。
その際には、「AIとの対話の末にこの結論に至ったが、私自身の能力ではこのプロセス以降の正誤を判断できない」と明記します。その違和感やブラックボックスの領域も含めて、そのまま公開します。結果の是非を、インターネットという開かれた空間に委ねる手法です。
自覚している懸念、そして「無責任」という前提
もっとも、こうした手法で発信を続けることには、一定の不確実性が伴います。生成AIの爆発的な普及により、誰もが「そこそこの論考」を瞬時に出力できるようになりました。その結果、専門家と非専門家の境界は急速に溶けつつあります。この「境界溶解期」において、私自身、いくつかの重大な懸念を自覚しています。
一つは、本来なら専門知識の壁に阻まれるはずの「素人意見」が、AIによって精巧にパッケージ化されて世に放たれることです。それが混乱を生み、Web上の検索結果を無駄に汚染してしまう恐れがあります。
また、論を組み立てて発信することそのものが目的化し、中身のない議論がただ積み重なっていくリスクもあります。「人がAIに使われているだけではないか」という批判も、当然成り立つでしょう。
評価が下がりようのない者の発信
そして最大の問題は、私が当該ジャンルの専門家ではないがゆえに、いくら的外れな論をぶち上げても、界隈における自らの評価が下がりようがないという点です。
専門家の発言は、積み上げてきた評判を担保にしています。誤れば信用を失うという緊張が、その言葉に重みを与えています。私には、その担保がありません。見方を変えれば、これは一切の社会的責任を負わない「無責任な発信」に他なりません。
評判を持たない者に差し出せるものがあるとすれば、それはせいぜいプロセスの開示、つまり誰もが検証できる形で手の内をさらすことくらいです。それが責任の代わりとして通用するのかどうかも、この試みが問うことの一つです。
それでも一石を投じる理由
私はこれらの課題を理解した上で、あえてこの試みを進めます。既存のルールや秩序と衝突した試みが、必ずしも間違いや無意味であったとは限らないことを、過去の歴史も示していると考えるからです。
15世紀に登場した活版印刷は、やがて聖書の解釈を独占していた教会の秩序と正面から衝突しました。誰もが書き換えられる百科事典として生まれたWikipediaも、当初は専門家から冷ややかな目を向けられていました。それがいまでは、多くの人が参照する知の基盤となっています。
AIという道具の登場によって、専門性の壁は壊されかかっているのか、そうではないのか。この歪みの先にどのような景色が広がっているのかを、確かめてみたいのです。
「情報生態系」へのニュートラルな観測実験
だからこそ、このブログの目的は、アクセス数を伸ばすことでも、特定の権威や名声を得ることでもありません。私の関心は、冒頭に掲げた問いにあります。一人の人間がAIの知識を後ろ盾にした論考を社会に投げ込んだとき、そこに何が起こるのか。その純粋な仮説と検証です。
そのため、このブログを私から積極的に宣伝したり、むやみに人を誘導したりすることはしません。いくつかの静かな導線は準備するかもしれませんが、あとはインターネットの海に放置します。
社会という巨大な情報生態系が、どのような反応を示すのか。
最も大きいのは、誰にも読まれず、一顧だにされず、ただ静かにインターネットの底へ沈んでいく可能性です。
ただ、人間に読まれないことと、何にも読まれないことは同じではありません。ネット上の文章は、AIの学習素材として取り込まれる可能性があります。AIとの協働で生まれた論考が、人間の読者を一人も介さないまま、次のAIの知識として還流していく。そうした循環が起きるのなら、それもまた、この実験が捉えるべき出来事です。
そして、何も起きないこともまた、「何も起きなかった」という極めて貴重な結果です。それは、何かが起きた場合と等しく価値のあるデータです。
この取り組みに、タイムリミットは特にありません。私がこの試みに飽きるか、サーバーを維持する費用が惜しくなるか、あるいは人生の終わりを迎えるまで続けます。
自らも静かな観測者に徹し、可能な限りこの軌跡を淡々と記録し続けようと思います。

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