テレビや新聞などのマスコミに対して、「公権力を監視し、真実を報道する正義の味方であってほしい」と願う人は多いのではないでしょうか。しかし現実の報道を見渡すと、偏った意見の押し付けや過激なバッシング、不安や怒りを煽る扇情的なコンテンツが目につきます。その姿に「マスコミは劣化した」「昔に比べて質が落ちた」と幻滅し、激しい怒りをぶつける声も後を絶ちません。なぜ、マスコミはこれほど変わってしまったのでしょうか。
答えにたどり着くには、彼らが掲げる「あるべき姿」をいったん脇に置く必要があります。そのうえで、彼らがどのような仕組みで糧を得ているのかという実態から見つめ直します。結論から言えば、マスコミは劣化したのではありません。二百年近く前の出自へ、本来の姿へと戻ったのです。
※一個人が問いを立て、AIとの協働により作成した論考となります。あくまでも仮説であり、正確性・学術性を必ずしも担保するものではありません。その点を理解したうえでお読みいただけると幸いです
始まりは「正義」ではなく「関心の換金」
私たちはマスコミのルーツを、市民革命期の「言論の自由」や「権力の監視」という理念に求めがちです。しかし、大量に刷って大量に読ませる、現代につながる大衆紙のビジネスが形をとった場所は別にあります。それは1833年、ベンジャミン・デイがニューヨークで創刊した『ザ・サン』の成功に始まる「ペニー・プレス(1セント新聞)」でした。
それまでの新聞は1部6セントほどと高価でした。主に年間購読で商人や政治家に届けられる、政党色の濃い媒体だったのです。そこへ、1部1セントの新聞を新聞売りに卸し、街頭で売りさばく新聞が登場します。紙面を埋めたのは政治論争ではなく、犯罪や裁判、男女のスキャンダルといった、人間の本能的な興味をそそる物語でした。そして収入の柱は、政党の後ろ盾や高額な購読料から、広告と街頭販売へと移ります。膨れ上がった読者の数そのものが、広告主に売る商品になったのです。新聞は読者に紙面を売ると同時に、読者の注意を広告主に売る商売になりました。
これが、今日まで続く「アテンション・エコノミー(関心の経済)」の原型です。マスコミの出自は、ジャーナリズムである以前に、人々の関心を集め、それを換金する商売でした。
ですから本稿で「マスコミ」と呼ぶのは、特定の新聞社やテレビ局という組織ではなく、人々の関心を収穫し、換金する機能のことです。ただしその範囲は、収入が受け手の注意の量、つまり部数や視聴率、PV(ページビュー)に応じて決まる報道と情報娯楽に限ります。逆に言えば、注意の量に頼らずに成り立つ報道が健在であるなら、それは本稿の構図への反証の候補になります。この点には、のちほど立ち返ります。
「高尚化の皮」を被った擬態の時代
では、なぜ私たちはマスコミに「正義の味方」の像を重ねるようになったのでしょうか。その答えは、20世紀に訪れた「高尚化の皮を被った進化」の時代にあります。
20世紀に入ると、事実と意見を分ける客観報道が、1920年代前後から記者の職業規範として形を整えていきます。さらにラジオとテレビが登場し、電波や紙面という流通網を少数の事業者が握るようになりました。その結果、メディアは超過利潤(競争にさらされないことで生まれる余剰の利益)を安定して手にするようになります。この余裕が、芽生えたばかりの理念を一気に開花させました。剥き出しの利益追求を、一時的に抑えられるようになったのです。
彼らはコストと時間をかけて事実を検証し、「客観中立」「権力監視」というジャーナリズムの理念を自らにまといました。その理念がブランド価値を高め、ブランドがまた独占的な地位を固めていく。そうした幸福な経済循環が回っていたのです。日本ではこの余裕が、記者クラブや再販制度、戸別配達網といった仕組みによって、とりわけ厚く守られていました。その経済的な条件については、別稿「なぜ報道は、かつて高尚でいられたのか」で詳しく掘り下げています。本稿が見つめたいのは、その条件が崩れたあとに残ったもの、すなわち鏡と、それを覗き込む私たちの側です。
私たちが「かつてのマスコミは信頼できた」と懐かしむ風景の正体は、独占の利益に守られたシステムが、正義の物語を演じることのできた擬態の時代でした。演じていたのは個々の記者の偽善ではありません。その時代の余裕が許した、システムの振る舞いだったのです。
環境変化によって剥ぎ取られた「化けの皮」
この幸福な循環を断ち切ったのが、インターネットとSNSの登場でした。
誰もが発信者になれる時代が訪れ、マスコミが握っていた「人々の関心の収穫権」は、数え切れない発信者と分け合うものに変わりました。スマホを手にした人々の注意を、無数のインフルエンサーや動画、ゲームと昼夜を問わず奪い合う、過酷な過当競争が始まったのです。
経済的な余力を失ったシステムにとって、最も選ばれやすい道は明らかでした。コストも時間もかかる高尚化の皮、つまり丁寧な事実検証や多角的な視点を脱ぎ、最も手っ取り早く関心を惹きつけられる「野生の姿」へと先祖返りすることです。
ネットニュースのPV至上主義、感情的な二項対立の構図、特定の個人を徹底的に叩くワイドショーの演出。これらは記者一人ひとりの倫理的な堕落というより、追い込まれたシステムが、出自に刻まれた最適化を覆いのないまま繰り返している姿です。
檻の外にあるように見える報道
もっとも、すべての報道がこの道を選んだわけではありません。受信料で支えられる公共放送、購読料で読者と直接つながるサブスクリプション型のメディア、寄付や財団の資金で何年もかけた調査報道を続ける非営利の報道機関。注意の獲得競争から距離を取り、手間のかかる検証をいまも手放していない報道は、確かに存在します。
では、これらは先の構図への反証になるのでしょうか。半分はなります。収入が注意の量に直結しないという点で、冒頭で限定した機能の外側に立っているからです。けれども残りの半分は、構図の内側にあります。公共放送も視聴率と存在意義をたえず問われています。有料のメディアは、「煽られない、冷静な読者でありたい」という一部の層の欲望に応え、信頼そのものをプレミアム商品として売っています。注意の大市場から降りたというよりも、その隣に「注意を浪費しない自分」を求める小さな市場が生まれ、そこへ移ったと見るほうが実態に近いはずです。だからこそ、こうした報道は確かな質を保ちながらも、社会全体の議題を動かす力を以前ほどには持てません。例外は、例外であることを商品にして生き延びているのです。
似非宗教に失望した信者たちの反逆
擬態が剥がれていく過程は、社会に大きな「愛憎の反転」を引き起こしました。それこそが、現在の激しいメディア不信の本質です。
マスコミが正義のインフラとして機能していた時代、多くの人はそれを「客観的な事実を伝える中立な存在」として疑わずに信じていました。いわば無自覚のうちに、その「宗教」の信者になっていたのです。
しかし、SNSによってメディアの裏側の都合、つまり視聴率やPVのための偏向や演出が人目に晒されたことで、人々は気づいてしまいました。自分たちが信じていたものは高潔な聖職者などではなく、自分たちの関心を金に変えているだけの「似非宗教」だったのではないか、と。
宗教の歴史が示すとおり、ある宗教を最も激しく攻撃するのは、最初から信じていない異教徒ではありません。「騙されていた」と気づいた元信者です。いまマスコミに向けられる「マスゴミ」といった苛烈な罵倒や執念深い揚げ足取りは、冷静な批判というよりも、裏切られた信仰への情念を伴った「異端審問」や「復讐」の性質を帯びています。
壊れた鏡と、磨き抜かれた鏡
けれども、ここで私たちは、より厄介な逆説と向き合わなければなりません。マスコミはなぜ、検証を後回しにしてまで、他者のスキャンダルや感情を逆なでする物語を流すのか。それは、私たち自身がそうしたコンテンツを熱心に消費し、PVや視聴率というかたちで彼らに利益を与え続けているからです。
マスコミというシステムは、人々が何に関心を持ち、何に感情を動かされ、どの水準の娯楽に時間とお金を払うかという市場のデータに、忠実に最適化されています。つまりマスコミは、社会の真実を伝える鏡としては壊れてしまいました。その一方で、社会を構成する人々の欲望と成熟度を映す鏡としては、いまこの瞬間も完璧に機能しているのです。
ただし、この鏡が映すのは、私たちが熟慮のうえで望むものではありません。思わず目を留めてしまうものです。映っているのは社会の内面のすべてではなく、指が止まる瞬間の内面です。けれども、その瞬間の総和こそが市場を動かします。画面の向こうの歪んだ報道は、メディアの悪意だけが作り出したものではありません。そこには、覗き見の好奇心や、「見たいものだけを見たい」という認知バイアス(思考の偏り)を満たしている、私たち自身の姿が映り込んでいます。
しかも、この鏡はただ顔を映すだけではありません。アルゴリズムは、反応の強かったものを増幅して私たちに送り返します。すると私たちは、知らず知らずのうちに、鏡に映った顔へと自分の顔を寄せていきます。鏡が欲望を映し、映された欲望がさらに鏡を磨き上げる。鏡と顔は、互いを作り変えながら共に進化しているのです。
割れた破片にも、同じ顔が映る
この鏡の厄介さは、映った顔の醜さに激怒して鏡を叩き割っても、映っている本人の顔、すなわち社会の精神的な現在地は変わらないという点にあります。
人々はマスコミを叩き、制裁を加えることで、自分たちが正義の側に立っているかのような感覚に浸ります。しかし、そのバッシングの熱狂さえも、アテンション・エコノミーの中ではクリック数という上質な燃料として換金されてしまいます。誰も満足していないのに、その不満そのものが燃料となって歯車を回し続ける。止めようとする力までが回転の動力になる循環が、ここに出来上がっています。
仮に既存のマスコミが経済的に崩壊し、姿を消したとしても、この歪みは終わりません。注意の量で収入が決まる仕組みと、目を留めてしまう欲望とが残る限り、場所がテレビからSNSやAIメディアに移るだけで、同じ鏡が次々と生まれてくるはずです。冒頭で定めたとおり、ここで問うているのは組織ではなく、その仕組みと欲望の組み合わせだからです。
手元に置くもう一枚の鏡
では、鏡を磨き直す手立てはないのでしょうか。
いま考えうる候補のひとつが、受け手の側に立つAIです。手元のAIが煽り表現を平易な事実の記述へと要約し、刺激の強い見出しを遮る。先に挙げた別稿では、これを認知を守る防壁として描きました。それは檻の出口になるのでしょうか。
おそらく、AIもまた鏡です。ただし、映すものが違う可能性があります。広告とPVの鏡が映すのは、目を留めてしまう自分でした。手元のAIに「煽りを遮ってほしい」と頼むとき、そこに映るのは、こうありたい自分、いわば欲望についての欲望です。指が止まる瞬間の自分ではなく、一歩引いた自分を映す鏡を、人は初めて手にしうるのかもしれません。
けれども、そこには条件があります。AIを提供する事業者の収入が利用時間や反応の量で決まるなら、その鏡はやがて元と同じ顔を映し始めます。また、遮断を頼む「こうありたい自分」の像が狭ければ、AIは見たいものだけを見せる、より滑らかな鏡になるだけです。出口になるか、新しい鏡になるか。それを決めるのは技術ではなく、私たちがその鏡に何を映させるかです。
理想という名の未練
どの鏡を手にしても、なお残る問いがあります。人はなぜ、映った顔を嫌いながら、鏡の前から離れないのでしょうか。
人間は、自分や自分の属する社会がどれほど正しいかを確かめるために、外部の鏡を覗き込む習慣をなかなか手放せません。「本当はもっと美しい姿があるはずだ」という理想への未練があるからこそ、その確認のために、何度でも鏡の前に立ってしまうのです。覗き込むことをやめられないとき、鏡は檻へと変わります。
ペニー・プレスから二百年近くを経て、この鏡はインターネットという地球規模の神経網を手に入れました。仕組みはかつてなく高度になりましたが、それを動かすエンジンは、人間の最も古い情動のままです。
そして、この文章もまた、檻の内側で書かれています。マスコミの堕落を構造で語る論考は、「自分は踊らされていない」と確かめたい読者にとって、上質な燃料になりえます。書き手も読み手も、鏡の外に立って鏡を論じることはできないのです。
マスコミとは、社会の真実を伝える正義の機関ではありません。人間が「あるべき理想」に届かない自らの姿を確かめ、呪い、それでもなお自己認識のために立ち戻らずにいられない、現代社会で最も大きく、最も逃れがたい「実存の檻」なのです。
その格子の手触りを知ることから、私たちがこの情報空間を生きるための足場づくりは始まります。
