AIと素人が共著する時代 ── 理解しきれない部分も公開する「新しい誠実さ」とは

生成AIとの対話を通じて専門外の領域を思索する試みは、私自身の認知の枠組みを押し広げました。それと同時に、思いがけず一つの倫理的な問いを突きつけてきました。AIと共に導き出した論理のうち、自分が理解しきれない部分を削って公開することは、本当に誠実なのか、という問いです。本稿では、AIとの協働の中で生じた心境の変化をたどります。そのうえで、不完全さを隠さずに開示し、その検証を社会の集合知に委ねることこそが、いまの情報生態系における新しい誠実さになり得る、という仮説を論じます。

「AI時代における素人論考の試み」という実験の現在地

まず、この実験の枠組みを簡単に振り返っておきます。当ブログでは、「AI時代における素人論考の試み」と題した実験を続けています。詳しい趣旨は、同名の記事に記しました。

私が原作者兼編集者として問いを立て、生成AIが作画担当の漫画家として、膨大な知識から論理を組み立てます。そのうえで、前提の異なる複数のAIモデルに出力を突き合わせて相互に検証させ、偏りやもっともらしい誤り(ハルシネーション)を極力取り除きます。そうして生まれた論考をインターネットという情報生態系に投じ、何が起こるかを観測することが、この試みの核心です。

思索の構造化がもたらす「問い」の自律的な蓄積

この取り組みを始めるにあたり、私が最も懸念していたのは、発信を続けるための題材が早々に枯渇するのではないか、という点でした。高度な専門知識を持たない立場から、社会へ問いを投げかけ続けることには限界があると考えていたからです。

しかし、おおよそ1日1投稿のペースで運用を続けた結果、本稿の執筆時点で投稿数は35稿に達しました。次回以降に向けたストックも30稿あります。この予期せぬ蓄積には、主に2つの理由があります。

  • 協働プロセスの習熟と洗練:AIに適切な文脈を与え、議論を深めていく対話の手続きに私自身が慣れ、生産の型が身についたこと。
  • 事象に対する認知の変容:この思索の手続きが定着すると、日々の業務や生活の中で目にするあらゆる事象や些細な疑問が、AIへ投げかけるべき価値ある「問い」へと変わるようになったこと。

フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、著書『思想と動くもの』の中で、問題を立てることは単に発見することではなく、発明することだという趣旨を述べています。AIとの対話を通じて、問いを立てる技術が磨かれました。その結果、周囲の環境すべてが思索の素材として立ち現れるようになりました。私の中で起きたのは、そうした認知の大きな転換、いわばパラダイムシフトでした。

誠実さの反転

問いが次々と湧き出る一方で、その問いから生まれた論考をどこまで公開するかについては、私の考えは大きく揺れ動いてきました。

取り組みの初期に私が重視していたのは、論を公開する者としての「責任の境界線」でした。AIが提示した膨大な出力のうち、私自身が完全に理解し、自らの知識体系の中で消化できた内容だけを選び、理解の及ばない複雑なロジックや、自分の中に原体験として存在しない要素は、割愛していました。

その背景には、一つの倫理的な規範がありました。専門外の人間が公共のWeb空間に向けて発信する以上、自分が説明責任を負える範囲に文脈を限定することが、世の中に対する誠実さである。そして、それが正確性を欠いたノイズを社会に流布させないための防波堤である、という考えです。

知の主客反転

しかし、AIとの対話と思索を深めるにつれ、この誠実さのあり方に重大な疑問が生じるようになりました。

本来、出力を判定する主体は私であり、AIの出力はその判定を受ける客体のはずでした。ところが、複数のAIが相互検証の末に導き出した論理を前にすると、判定されているのはむしろ私の理解力の方ではないか、と感じるようになりました。主と客が入れ替わるこの感覚が、疑念の出発点です。

「私の理解が追いつかない」という極めて主観的な理由で、複数の高度なAIモデルが相互検証の末に導き出した、客観的に正当性のあるかもしれない論理の帰結を、私の独断で切り捨てる。その行為は、果たして本当に「誠実」なのか、という疑念です。

AIとの知的協働の本質的な価値は、人間の認知能力の限界を補い、個人の知の枠組みを超えた景色を見せてくれる点にあります。それにもかかわらず、私個人の認知のサイズに合わせて出力を縮めてしまえば、AIと共に到達できたはずの「知の到達点」を、私の都合で歪めることになるのではないか。そのような、新たな問題意識が芽生えました。

実験空間における誠実性の再定義

ここで、文章の置かれた場の違いが意味を持ちます。もし私が、厳密な査読と検証を前提とする学術論文を書く立場であれば、自分が完全に理解も実証もできていない内容を記述することは、学術的な過失です。それは、先達が築き上げてきた学問への敬意に反する行為でもあります。

しかし、このブログはあくまで、「AIと人間が協働したときに何が起こるのかを検証するための実験空間」です。そうであるならば、人間の先入観というフィルターで出力を都合よく編集すべきではないのかもしれません。AIとの対話によって立ち現れた成果物を、たとえ一部に私の理解を超えるブラックボックスの領域が含まれていても、できる限りありのままの姿で提示する。それこそが、この実験における真に誠実な姿勢であり、先駆的な技術への敬意なのではないか。私は、そう結論するに至りました。

2つのフォーマットの溶解と境界の変容

こうした誠実さの再定義は、ブログの運用の形にも影響を及ぼしています。

当初、私の理解を超える領域が出現することを見越して、「AIを使って知らない分野を説明してみた」という別系列のシリーズを用意していました。これは、私の理解が及ぶ通常の論考と、理解の及ばない領域を明確に分け、その前提を世の中に開示するための境界線(フォーマット)でした。

しかし、さまざまな領域について思索を重ねる中で、この境界線は急速に溶解しつつあります。論の出発点と到達点は十分に理解し、納得している。それにもかかわらず、複数のAIモデルが議論を修正し洗練していく中間プロセスで、私の知識水準を超える高度な論理が挿入される。そうした現象が、たびたび起きるようになったからです。

直近の例でいえば、「人類と世界を調停する神話:『ドラえもん』における構造と精神の基底システム」では、私自身が理解できない内容はほとんどありません。骨格から肉付けまで、私の問いと発想によって形作られたと言って差し支えない論考です。

一方で、他の多くの論考では、骨格が完成してAI同士でチェックを行う段になると、議論をもとにAIが作り上げた、発展形とも呼ぶべき肉付けが加わることが増えてきました。

その結果、「通常の論考」と「AIを使って知らない分野を説明してみた」シリーズの差は、客観的に見て極めて不明確になりつつあります。

運用の継続と各フォーマットの役割の再定義

それでも、2つのフォーマット自体は、今後も運用を続けます。どちらのフォーマットであっても、「私が問いを立て、AIと共に議論を重ねて結論に至った」という協働の構造に変わりはないからです。ただし、切り分けの基準は次のように改めます。

  • 通常の論考:展開される論理に対し、私自身が心から、あるいはかろうじてでも、「これは客観的な真実、あるいは妥当な推論ではないか」と一定の確信を持てた内容。
  • 「AIを使って知らない分野を説明してみた」シリーズ:私の知識では判定しきれない領域まで、AI同士の肉付けが進んだ内容。理解できないという事実とそのプロセスを、思考の軌跡としてそのまま公開する。

そして、この切り分けの基準である「私の理解」そのものも、固定されたものではありません。論考を重ねるうちに、かつて追いつけなかった論理が、いつの間にか理解できるようになっていることがあります。だとすれば、このシリーズは固定されたラベルではなく、私の理解の変化とともに書き換わっていく地図です。いずれ「知らない分野」から「通常の論考」の側へ移っていく記事も、現れるはずです。

結論:不完全性の開示が導く「最たる誠実性」への仮説

では、理解しきれない部分を含んだまま論考を公開することは、社会に対して何を意味するのでしょうか。

インターネットには、「正しい答えを得る最良の方法は、質問することではなく、間違った答えを投稿することだ」という経験則があります。ウィキ(誰もが編集できるWebページの仕組み)の考案者ウォード・カニンガムに由来するとされ、「カニンガムの法則」と呼ばれています。最初から欠点のない正論よりも、不足や検討の余地を残したもの、つまり他者の知恵が入り込む余白を持ったものの方が、社会の集合知や相互協力の仕組みを強く駆動させます。

私が理解しきれていない、ある種の中途半端な状態の論考を世に放つ行為は、一見すると発信者としての無責任、あるいは不誠実と受け取られるかもしれません。しかし、自分の認知の限界を素直に認め、AIとの協働プロセスのすべてを隠さずに開示し、その正誤の検証を、インターネットという開かれた空間の集合知に委ねる。それこそが、情報過多の時代における最も誠実なアプローチになり得るのではないか。そのような逆説的な仮説も、許容される余地があるのではないか。そう考えるに至りました。

もっとも、誰にも検証されないまま沈んでいく可能性の方が高いことは間違いありません。それでも、開示の誠実さは失われないと私は考えます。その誠実さは、目の前の読者や検証者だけでなく、いつかこの記録に辿り着く未来の誰か、あるいは記録そのものに宛てたものだからです。

さまざまなジャンルの発展に関わってきたすべての技術者と先達への敬意を胸に、私はこの実験的な取り組みと合理的推論のプロセスを、これからも淡々と続けていきます。

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