現代における怪異の位相 ―― 認知の境界からプラットフォームの自律的動態へ

怪異は、いまどこに棲んでいるのでしょうか。かつて辻や山境の暗がりに潜んでいたそれは、科学の進展とデジタル環境の深化を経て、存続の形を劇的に変えてきました。本論では、人間の認知が生む錯覚から出発した怪異が、人々の注意を奪い合う経済の仕組みや、アルゴリズムによる自動化と結びつくことで、人間の意図が薄れていく自律的な運動へと行き着いた道筋を辿り、その文化的な意味を紐解きます。

※一個人が問いを立て、AIとの協働により作成した論考となります。あくまでも仮説であり、正確性・学術性を必ずしも担保するものではありません。その点を理解したうえでお読みいただけると幸いです

認知構造の限界領域と怪異の初発生成

怪異の本質を探るにあたって、まず目を向けるべきは、人間の認知と社会の秩序がつくる境界線です。古来、人間は空間や時間、社会的な役割、安全を守るための規範といった秩序の体系を築き、自らの生活圏を確保してきました。しかし、こうして編み上げた分類の網目からは、どうしても漏れ出す事象や、意味を与えられない偶発的な出来事がこぼれ落ちます。民俗学や文化人類学は、この境界、すなわち分類の体系が破綻する局面に立ち現れる知覚体験こそが、怪異の原型であると捉えてきました。

認知科学の視点を重ねると、この体験には生物学的な土台があることが見えてきます。人間には、環境の微細な刺激や無秩序な情報の中に、即座に「意図を持った何者か」を見出してしまう強い傾向が備わっています。認知宗教学者ジャスティン・バレットらが「過剰能動的エージェンシー検出装置(HADD: Hyperactive Agency Detection Device)」と名付けたこの傾向は、壁の染みや雲の形に顔を見てしまうパレイドリア現象とも通じ合い、捕食者や敵をいち早く察知して生き延びるための適応として発達したと考えられています。理不尽な災害や原因の知れない病に「怪異」という名と因果を与える行為は、HADDの過剰作動がもたらす恐怖を「解釈できるもの」へと置き換え、共同体の心の安定を保つ防衛機構として働いていました。

もっとも、こうした感覚が個人の錯覚に終わらず社会的な実体を持つには、それを言葉や形象として外に取り出し、口承や記述によって集団で共有する営みが欠かせません。そして何より決定的なのは、正常と異常、日常と非日常を峻別する社会規範の存在です。人間が秩序を築く存在であるからこそ、その反作用として、秩序からの逸脱たる怪異が生まれる。この構造こそが、人間と怪異が切り離せない関係にあることを示しています。

科学的合理化と「トポスの解体」による適応戦略

ところが、近代に入って科学的合理性が浸透し、自然現象や身体の仕組みが解き明かされていくと、怪異は歴史的な存続の危機に直面します。「未知の事象を説明する原理」という役割を科学に奪われた怪異は、従来の存在理由を保ったままでは消滅を免れなくなったのです。

ここで起きたのが、存在理由の移行と形態の柔軟な適応でした。怪異は現象の説明者という役割を自ら手放し、人間の感情や美意識、娯楽や自己同一性を支える文化的な接点へと、その形質をスライドさせていきます。前稿では、文化情報が現代のメディア環境に適応する仕組みとして、伝承を名前や属性、物語の型といった交換可能な部品に分解する「モジュール化」と、原典に宿る残酷さや禁忌という毒を抜き取る「機能的無菌化」を論じました。怪異もまた、生贄や残虐性といった摩擦を削ぎ落とされて軽量化され、ジャン・ボードリヤールの言う「シミュラークル(オリジナルなき模造)」として、ポップカルチャーやフィクションの領域に定着していきました。

このモジュール化に伴って、怪異には固有の構造転換が生じています。それが「トポス(場所性)の解体と情報空間への移行」です。かつて民俗学者の柳田國男や小松和彦が分析したように、伝統的な怪異は、辻や山境、村外れ、あるいは特定の屋敷といった、湿り気と暗がりを伴う物理的な場所と不可分に結びついていました。

場所の束縛から切り離され、データや概念として軽くなった怪異は、かつての地域社会に代わる新たな基盤として、デジタルネットワークを手に入れます。かつては「その場所を訪れた者」にだけ作用していた不気味さは、通信網の同期性と即時拡散性を介して、タイムライン上の数万人が同時に同じ不気味さを味わう「空間を超えた即時感染力」へと置き換えられたのです。

アテンション経済とデジタル空間における「毒」の再注入

こうして無菌化され、場所からも解き放たれた怪異は、人々の注意や関心が希少な価値として取引される「アテンション・エコノミー」の深まりの中で、さらなる変貌を遂げます。

安全に無菌化され、消費し尽くされたコンテンツは、やがて大衆の注意を惹く力を失います。生物学的に見て、人間の認知、とりわけ恐怖や警戒をつかさどる扁桃体を最も強く捕らえるのは、予測のつかなさや不安、そして解釈しがたい「不気味さ」です。そこへ、注意の獲得がそのまま社会的・経済的な評価に直結するプラットフォームの構造が介入します。

承認や収益に動機づけられた発信者やクリエイターたちは、注意を効率よく集める触媒として、いったん無菌化された記号に、意図的に、あるいは偶然に、不条理さや本質的な不気味さという毒を再び注ぎ込み始めました。

たとえば、2004年に匿名掲示板から生まれたネット怪談「きさらぎ駅」は、架空の駅に迷い込む文章として消費されるにとどまらず、実在の路線や位置情報を織り込んだ体験型動画や、現実と虚構を横断して遊ぶARG(代替現実ゲーム)へと発展し、受け手のリアリティの境界を揺さぶりながら拡散を重ねてきました。また、海外の匿名掲示板に投稿された、黄ばんだ壁紙の続く無人の部屋を写した一枚の写真から始まった「Backrooms」は、無数の匿名の書き手によって「現実からはみ出した先に広がる無限の迷宮」として増築され続けています。どこにでもありそうで、どこにも存在しない空間。そこでは、日常の風景という最も無害な記号に、出口のない不条理という毒が注がれています。人々は、注意と感情の共有を最大化するために、無菌化された記号へ再び生の不条理を注ぎ込み、それを駆動させているのです。

解体されたトポスの仮想的な再建

ここで見逃せないのは、Backroomsや、地下通路の異変を探しながら同じ通路を巡り続けるゲーム『8番出口』のように、近年の怪異がむしろ「場所の不気味さ」をデジタル上に作り直している点です。物理的な辻や山境を失った怪異は、通路や部屋、待合室といった、誰のものでもない通過のための空間を仮想的に組み上げ、そこに再び棲みつきます。

だとすれば、トポスは捨てられたのではありません。一度解体されたうえで、情報空間の中に異界として再建されたのです。場所性は、怪異が時代とともに脱ぎ捨てる属性ではなく、形を変えて何度でも回帰してくる本質なのです。

アルゴリズムによる自動増幅と「人間の意図の希薄化」

注意を集めようとする人間の営みから始まった怪異の再野生化は、推薦アルゴリズムや生成AIの高度化によって、新たな位相へと踏み込んでいます。それは、怪異の生成と増幅の過程から、人間の主体的な意思が構造的に薄れていく傾向の出現です。

推薦アルゴリズムは、人間の感情や文化的な文脈を理解しているわけではありません。しかし、滞在時間の延伸や、利用者の反応の量を示すエンゲージメント率の最大化という単一の目標に従って動くうちに、機械学習システムは「解釈しがたい不気味な映像や文章」が人間のHADDや警戒心を強く刺激し、注意を不均衡に奪うという統計的なパターンを正確に学び取ります。

この最適化の帰結として現れたのが、かつて動画プラットフォーム上で発生した「Elsagate(エルサゲート)」や、SNSなどで拡散された「イタリアン・ブレインロット(Italian Brainrot)」に代表される、AI生成画像や自動合成音声が紡ぐ、シュールで不気味なミームの肥大化です。

Elsagateで重要なのは、子ども向けキャラクターという日常的で安全な秩序の中に、不快で残虐、解釈不能なパターンという秩序の破綻が、自動的に挿入された点にありました。イタリアン・ブレインロットでは、人間に似ていながら何かが決定的に違うと感じさせるAI特有の質感、いわゆる「不気味の谷」と、意味の完全に失われた音声とが、アルゴリズムを介して大量に消費されます。そこでは「意味のある怪異を作ろう」という人間の意図すら希薄です。注意を最大化しようとするアルゴリズムの選択圧と、生成システムのフィードバックループとが、結果として「人間にとって不気味で不可解なパターン」、すなわち現代の怪異を優先的に選び出し、増幅し続ける環境を形づくっています。

プロンプトを入力するのも、プラットフォームの商業設計を担うのも人間です。それでも、ニューラルネットワークの判断理由を設計者すら追跡できないブラックボックスの中で、怪異の出力過程における人間の直接的な意図と制御は、限りなく薄れつつあります。

新たな境界と、システムへ向かう畏怖

ここで、冒頭の問いに立ち返ってみます。怪異が分類の体系の破綻する境界に生まれるのだとすれば、現代の怪異はどこに境界を持つのでしょうか。それは、人間の分類とアルゴリズムの分類がずれる継ぎ目です。Elsagateの動画群は、機械の目には「人気キャラクターの子ども向け動画」として何の矛盾もなく分類されながら、人間の目には明らかな異物として映りました。二つの分類の網目のあいだからこぼれ落ちたものこそが、いまの怪異の発生源なのです。

そして、この継ぎ目に立つ人間は、もう一つの怪異を見出し始めています。「アルゴリズムに見られている」「なぜかこの種の動画ばかり勧められる」という感覚は、意図を持たないシステムの背後に、意図を持った何者かを感じ取るHADDの新たな作動にほかなりません。かつて人間が自然界や未開の闇に向けていた「原理のわからない不条理への畏怖」は、いまや人類自身が作り出したデジタルシステムとアルゴリズムの動態そのものへと投射されています。怪異の主体は、画面に映るコンテンツから、それを差し出すシステムの側へと移りつつあるのです。

鏡としての怪異と、その継承

こうして辿ってみると、怪異は認知の限界領域に生まれ、科学による駆逐を適応と場所性の解体によってかわし、アテンション経済と結びつき、ついには人間の意図を超え出ていく自律的な循環へと近づいています。

この道筋は、各時代に怪異という捉えがたい現象と向き合ってきた人々の営みの上に成り立っています。神話を書き留めた古代の編纂者、怪異を収集し描き分けた江戸の説話作者や絵師、妖怪を学問の俎上に載せた井上円了、民俗学の礎を築いた柳田國男、その知見を現代へと受け継いだ小松和彦をはじめとする研究者、そして怪異を新たな物語や批評へと昇華させてきた表現者たちに、深い敬意を表します。

怪異は、いつの時代も人間社会を映す「鏡」であり続けてきました。共同体の境界線、近代の合理性、注意をめぐる経済、そして機械の判断。怪異の姿は、その時代の人間が何を秩序と呼び、何を理解の外に置いたのかを、そのまま映し出しています。物理的な場所からアルゴリズムの動態の奥へと潜伏先を移しながら、なお怪異が生き続けているという事実は、人間の文化構造が持つ驚くべき柔軟性と、未知なるものへの探求心の普遍性を物語っています。

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