男女平等の「その先」にある不条理:責任の等分が奪った余白と、新たなジェンダー施策の視座

平等が進んだからこそ、関係を結ぶことが難しくなっている面があります。ジェンダー平等を巡る長年の議論と社会的な取り組みは、若い世代に平等の意識を広く根付かせました。しかしこの達成は、日本特有の経済環境や雇用慣行と重なり、責任を過酷なまでに等分する関係の硬直化という、新たな課題を浮かび上がらせています。本論は、これまでの歩みに敬意を払いつつ、平等の先にある社会を持続させるための施策を考える視座を示すものです。

※一個人が問いを立て、AIとの協働により作成した論考となります。あくまでも仮説であり、正確性・学術性を必ずしも担保するものではありません。その点を理解したうえでお読みいただけると幸いです

「目標」から「前提」へ

この逆説を考えるには、まず平等がどのような道のりで築かれてきたかを振り返る必要があります。日本のジェンダー平等を巡る法制度や社会運動は、多くの先駆者たちの尽力によって進められてきました。その象徴的な転換点が、1985年に制定された男女雇用機会均等法です。「男性は仕事、女性は家庭」という固定的な役割分担を前提とした社会に対し、法の力で労働市場の機会均等を図る試みが本格的に始まりました。

その後も、1999年の男女共同参画社会基本法の制定や、育児・介護休業法の度重なる改正など、制度的な支援は着実に広がってきました。これらの変革は法律の整備にとどまらず、教育や家庭を通じて社会全体の意識を根本から変えていく、数十年規模の構造的なプロジェクトでした。

その結果、現在の若い世代、とりわけ10代から20代において、男女が対等であるという考え方はもはや「獲得すべき目標」ではありません。多くの人にとって、それは最初から当然に存在する前提として受け止められています。

意識と実態のあいだ

この変化は、各種の社会調査からも読み取ることができます。

内閣府の「男女共同参画社会に関する世論調査」の経年変化を見ると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に反対する割合は、若い世代ほど高い傾向にあります。性別による役割分担の意識は、世代を下るにつれて薄れています。日々の消費における対等さ、たとえば割り勘の定着も、若い世代ではごく一般的な光景となりました。

一方で、同じ調査では、社会全体で「男性が優遇されている」と感じる人が約8割を占めています。共働き世帯の家事・育児時間にも、妻側に偏る実態が残っています。意識の変化と実態とのあいだには、なお隔たりがあります。その隔たりの一部は、長時間労働を前提とした雇用慣行や、キャリア上の不利益といった、外側の社会システムがもたらす制約から生まれています。

この背景には、実質賃金(物価の変動を差し引いた賃金)の長期的な停滞という経済構造もあります。男性の側には、単独で家族を養う経済的な余裕、いわば非対称な責任を引き受けるための資本が乏しくなっています。女性の側にも、他者に経済的に全面依存するリスクがあり、共働きは多くの世帯にとって必然となっています。

思想の成熟と、経済的に生き延びるための要請が重なった結果、若い世代のキャリア規範は、性別による差が小さい方向へと移っています。これは、かつてのジェンダー論やエンパワーメントの活動が社会に大きく貢献し、当初の目的であった「個人の尊厳と機会の平等」に向けて大きな成果を上げてきたことを示しています。

清算し尽くされる関係

ところが、この意識の変化は、古い制度設計や言論空間が想定していなかった「次の段階の課題」を、実社会に立ち上がらせつつあります。

社会学者のアンソニー・ギデンズは、現代の親密な関係を「純粋な関係性」と呼びました。関係そのものから得られる満足以外に拠り所を持たない、対等な絆のことです。これが徹底された世界では、互いに「都合の良い非対称性」や「甘え」が許されにくくなります。この現象は男女のパートナーシップに限りません。同性パートナーシップや事実婚、多様な性自認を持つ人どうしの関係も含め、現代の対等な関係に広く現れうる課題です。双方が自立し、経済的・精神的な責任を等分に背負うよう求められるほど、パートナーシップは「リスクとコストの厳密な計算ゲーム」に近づいていきます。

人類学者のマルセル・モースは、人と人との関係が、贈り物とその返礼の連鎖によって保たれることを示しました。返しきれない借りがあるからこそ、人はまた相手のもとへ戻ってきます。そう考えると、責任の完全な等分は、関係のたびに貸し借りを清算し、借りをひとつも残さない営みです。清算の済んだ関係には、続けていく理由が残りません。平等の徹底が奪いかねないものは、単なる甘えではなく、関係を未来へつなぐ贈与の余白です。

日本という条件の掛け算

この余白の問題は、統計の上にも影を落としています。国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」では、25〜34歳の未婚者が「独身でいる理由」として、「適当な相手にめぐり会わない」に次いで「独身の自由さや気楽さを失いたくない」を多く挙げています。その背後には、他者と深く関わることで生じる生活上のリスクを避けたいという心理も読み取れます。

現代の若者は、高騰する住宅費や増え続ける教育費という、厳しい経済的リスクにさらされています。同時に労働市場には、職務よりも会社への所属を軸に働き方が決まる「メンバーシップ型雇用」の慣行が、長時間労働を前提としたまま根強く残っています。

「欧米型の対等な個人という意識」と「日本型の長時間労働と高い生活コスト」との掛け算は、若者たちの親密な関係に重い負荷をかけています。家庭にも社会にも、片方の困難を無条件に引き受ける余白は乏しくなりました。未婚化や少子化の背景には、経済的な要因、出会いの機会の減少、価値観の多様化など、複数の要因が重なっています。本論の見立ては、そこに加わる一因として、関係を結ぶことそのものから静かに距離を置く選択が、合理的に見える条件が整いつつあるという点にあります。平等の先で現代社会が直面しているのは、こうした新たな不条理の構造です。

「総体としての対称性」という考え方

では、失われた余白をどう考えればよいのでしょうか。一つの見方は、「一方の属性が常に強者で、他方が常に弱者である」という固定的な非対称性を前提とした補助から離れ、多様な生き方を前提とした設計に組み替えるというものです。

その中心にあるのは、ルールとしての「権利の平等(イコール)」を保ったまま、生物学的あるいは状況的な差によって一時的に崩れたバランスを埋める「公平(エクイティ)」なフォローを、双方向かつ対称的に配置するという視座です。この視座に立つと、フォローの対象となる領域と、自己責任に基づく平等の領域との境界線を、客観的に定義することが前提になります。

補正の境界線をどこに引くか

この整理では、補助や補正の対象は特定の性別という属性ではなくなります。妊娠・出産・産後の母体回復、初期の授乳といった、他者が物理的に代わることのできない「生物学的・医学的な不可逆性」と、それに直接伴う「一時的な機会損失」が対象となります。産後の心身への負荷は、大きな負傷からの回復期にたとえられることもあるほど重く、時に父親の産後うつのリスクとも連動します。ここに最も手厚いフォロー、すなわち一時的な非対称性を置くことは、この考え方の出発点です。

そのうえで、もう一方の当事者に生じる特有のリスクにも、同じ論理で対称的なフォローを組み合わせます。個々の場面では非対称でも、一続きのパッケージとして全体が釣り合う。これが「総体としての対称性」です。

それ以外の領域、すなわち代替可能な社会的労働である日常の家事や育児の分担、就職後の自発的なキャリア選択などは、この考え方では「前提の平等」の領域に置かれます。性別や性自認、家族の形を問わず、個人の責任と、互いの対等な合意に委ねられる領域です。

考えうる三つの選択肢

抽象的な枠組みも、既存の制度に重ねてみると手触りが変わります。たとえば次のような形が考えられます。

一つ目は、育児休業給付の拡張です。2025年に始まった出生後休業支援給付金によって、両親がそれぞれ14日以上の育休を取得した場合には、最大28日間、手取りの10割相当が補償されるようになりました。この期間を延ばし、給付の上限額も見直せば、ケアに専念する期間の世帯収入を守ることができます。一方で、雇用保険財政の負担、給付が所得に比例するため高所得層ほど恩恵が大きくなる点、そもそも育休を取りやすい職場とそうでない職場との格差が広がりかねない点が課題となります。

二つ目は、育児参画に伴う人事評価上の空白、つまり昇進格差のリスクを補正する仕組みです。評価補正を企業に義務づけ、実行した企業にインセンティブを与えれば、ケアを担うことのキャリア上の代償を小さくできます。ただし、評価の空白をどう客観的に測るのか、中小企業にとっての運用負担、そして休業者の業務を引き受けた同僚との公平感をどう保つのかという反論が想定されます。

三つ目は、適用範囲の拡張です。対称的なフォローを法律上の婚姻関係に限らず、事実婚やさまざまなパートナーシップなど、実質的に生計とケアを共にする「事実上の共同体」にも適用します。さらに、関係を結ぶ前の段階にある単身者に対しても、住宅支援や税制上の手当てなど、性別を問わない個人単位で経済的な余白を回復する策を組み合わせます。家族の形に対して中立である点が利点です。その一方で、実態の認定方法、婚姻制度との整合、財源の規模という課題が残ります。

この視座から見えるもの

補助の根拠を、特定のイデオロギーや固定的な属性ではなく、検証可能な「客観的な差の補正」に置く。そこに浮かび上がるのは、平等と公正が対立する理念ではなく、適用する領域を分けることで両立しうる設計の問題だということです。そしてそれは、個人どうしが清算し尽くしてしまった贈与の余白を、社会がどう引き受けるかという問いでもあります。

ただし、ここには一つの未決の問いが残ります。社会が余白を肩代わりするとき、それは関係を続ける理由を取り戻すのでしょうか。それとも、個人どうしの貸し借りを、個人と社会のあいだの貸し借りへと置き換えるだけなのでしょうか。返しきれない借りが関係をつなぐのだとすれば、社会が負担を清算するほど、その借りもまた消えていくのかもしれません。平等の先にある課題は、制度の設計と同時に、私たちが関係に何を残しておきたいのかを問い返しています。

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