異説を消さなかった正史 ── 壬申の乱から『日本書紀』へ

天武朝から奈良時代初頭にかけて編纂された『古事記』と『日本書紀』は、白村江の敗戦に端を発する対外危機と、壬申の乱という大規模な内乱の果てに生まれました。統治の正統性を「神話と歴史」という秩序によって築こうとした、国家的な歴史記録事業です。「天武天皇の個人的なビジョン」という目的論的な解釈から離れ、長期にわたるテクストの生成過程、国際環境の圧力、そして中央集権化に伴う構造的緊張に目を向けるとき、記紀の成立は別の姿を見せます。それは勝者の正統化装置にとどまらず、古代国家のサバイバルをかけた重層的な政治・文化戦略の所産として浮かび上がってくるのです。その鍵は、国家の正史でありながら異説を消さなかった、『日本書紀』の奇妙な形式にあります。

※一個人が問いを立て、AIとの協働により作成した論考となります。あくまでも仮説であり、正確性・学術性を必ずしも担保するものではありません。その点を理解したうえでお読みいただけると幸いです

壬申の乱の本質:武力による奪取から正統性の調達へ

壬申の乱は、飛鳥時代を揺るがした未曾有の内乱でした。しかし、この乱とその後の記紀編纂をめぐって本当に興味深いのは、誰が勝ったかではありません。そこには二つの謎があります。

一つは、剣によって王座を手にした勝者が、なぜその後、剣ではなく書物によって王座を固めようとしたのか。もう一つは、その勝者が編ませた国家の正史『日本書紀』が、なぜ異なる伝承を「一書に曰く」として次々と併記し、異説を消さなかったのか、です。

この二つは別々の問いに見えます。しかし、壬申の乱から記紀の完成までをたどると、最後に同じ一つの答えで解けることが見えてきます。

白村江の敗戦と統治システムのジレンマ

7世紀後半の列島は、対外的な危機と内政の急進的な転換が重なり合う、緊張に満ちた時代を迎えていました。663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したことは、一地方の軍事衝突にとどまりませんでした。国家運営のあり方そのものを根本から問い直す契機となったのです。巨大な帝国が海の向こうに控える国際環境のなかで、従来の豪族連合的な体制では、国家の防衛も迅速な意思決定も難しい。そうした強い危機感が共有されていきました。

この危機感のもとで進められたのが、近江大津宮への遷都、全国的な戸籍の整備、そして軍事・行政のトップダウンによる中央集権化でした。しかし、この改革は構造的な矛盾を孕んでいました。唐の皇帝支配を模倣するかのような強権的な手法は、各地の自立的な豪族や旧来の有力者たちにとって、伝統的な権益を脅かすものと映ったからです。そこへ皇位継承のルールをめぐる摩擦が重なりました。国家を守るための改革が、かえって国内最大の武装闘争を誘発する。ここに歴史のジレンマがありました。

剣から神話と制度へ

672年に勃発した壬申の乱は、吉野に退いていた大海人皇子が東国の軍事力を糾合し、近江朝廷を打ち破ることで決着しました。注目すべきは、その原動力の大半が地方の豪族や東国の兵であったことです。独自の生産基盤を持つ東国の首長層は、近江朝廷の重い負担や強権支配に不満を抱いていました。彼らはこの戦いを、自らの自立性や地域的な権益を守るための選択肢として捉えていたのです。

けれども、武力で前政権を打倒したという事実は、新政権にとって克服すべき課題でもありました。実力行使だけでは、広範な人々や地方の首長層を長く統治するための求心力を保てないからです。そこで政権が講じたのが、神話や法制度を媒介とした正統性の調達でした。その中核を成したのが、のちの『古事記』『日本書紀』へと連なる国家的な歴史観の創出です。『日本書紀』天武紀、とりわけ吉野からの挙兵の経緯を描く記述には、勝者の正統性を補強しようとする意図が見て取れます。

並行して、君主の称号も刷新されました。「大王」に代わって「天皇」という称号が本格的に用いられ始め、君主は神聖な頂点として、言語の上でも格上げされていきます。さらに684年の「八色の姓」をはじめとする身分・官位制度の再編は、豪族たちの家格を、天皇が授ける序列へと置き換えました。こうして新たな支配構造の礎が築かれたのです。

そして勝利した政権は、地方の首長層の期待とは異なる道を選びます。東国をはじめとする地方の軍事力や経済基盤は、中央の律令システムへと順次回収・統合されていきました。かつて自ら兵を率いて馳せ参じた首長たちは、自立した武装集団としての性格を失います。そして地方官僚や被支配層として、身分を再定義されていったのです。周縁の力で中心を打ち破りながら、結果としてその中心をより強固に再生産する。勝者の手には、こうした反転が残されました。

皇位継承の矛盾と古代国家の遺産

こうして確立された正統性の論理は、国家の統合を強めました。その一方で、皇位継承の現場に深い自己矛盾を抱え込むことにもなります。

実力で王座を得た者にとって、「天命」は使い勝手のよい論理です。徳を失った王朝から天命が去り、新たな者へと移る。この考え方は、簒奪(力による王位の奪取)を「天の意思の実現」へと変えてくれます。しかし、天命とは本来、移ろうものです。この論理を正統化の柱に据えれば、次に王座を狙う者にも同じ根拠を手渡してしまいます。

記紀が描いた正統性は、天命の移動ではなく、天孫降臨から途切れずに続く血統へと重心を置きました。それは、この危うさと無関係ではないでしょう。天武の政権は、自らが登ってきた梯子を、登りきったあとで外したのです。

ところが、この血統一元の論理にも決定的な空白がありました。正統な血統が皇族全体に及ぶ以上、その内側で「誰が真の継承者か」を決める客観的な基準は、神話のレトリックの裏側に存在しません。そのため正統性の論理は、皇族同士の競合を鎮めるどころか、継承を狙う者すべてにとっての根拠として働いてしまいました。

実際、天武天皇の崩御後、皇后として政務を共にした持統天皇の治世から奈良時代を通じて、皇位継承をめぐる謀反や皇族の粛清が繰り返されます。力による奪取を神話で覆おうとした試みは、正統性をめぐる争いの火種を、次代へと引き継ぐことにもなりました。神聖な権威の確立と、実利的な権力闘争の激化とが、表裏一体で進んでいったのです。そこに、古代国家の胎動期が抱えていた構造的緊張が表れています。

それでも、こうした闘争と矛盾をくぐり抜けて確立された枠組みは、のちの日本社会を規定するインフラとなりました。戸籍の整備や大宝律令などの法体系は、個人のカリスマに依存しない国家財政と行政の基盤を用意しました。また、「日本」という国家アイデンティティと統合的な歴史観は、神話から連なる天皇を中心とした国家・文化圏という、精神的な枠組みをもたらします。

ただし、その成功は地方の自立性の喪失と引き換えであり、皇親政治の閉塞と血の抗争という副作用を伴っていました。古代国家が手にした安定は、周縁の解体と中心の内紛という、二つの代償の上に組み上げられていたのです。

歴史編纂の構造的必然性と二重のメディア戦略

では、なぜ7世紀末から8世紀初頭という特定の時期に、大規模な歴史編纂事業が不可欠となったのでしょうか。答えを個人の先見性に求めずに背景を探ると、国際環境の圧力とシステム的な要請が重なり合っていたことが見えてきます。

当時の東アジアでは、唐を中心とする律令法秩序と中華思想が広がっていました。その周辺で国家として独立を保つには、自国が「神代の根源から連続する正統な歴史と法秩序を持つ文明国」であることを示す、公的なテクストが欠かせません。

加えて、文字による行政支配が進むなかで、さまざまな思想を一つに束ねる必要もありました。仏教の鎮護国家思想、陰陽五行思想や天文遁甲(天文と占術の知)といった大陸の世界観、そして天孫降臨の神聖性です。これらを重ね合わせ、散在していた伝承を体系的な「過去の記憶」へと再編しなければなりませんでした。書紀は天武自身が天文遁甲に通じていたと伝え、陰陽寮の名が史料に初めて現れるのもその治世です。このことは、この統合が政権の中枢から構想されたことを物語っています。

こうした内向きと外向きの要請に応えるため、朝廷は性格の異なる二つの歴史書を並行して編みました。

和銅5年(712年)に献上された『古事記』は、国内の諸氏族や人々に向けた書物でした。天皇家の神話的な由来と、共通の祖先の物語を語っています。漢字の音と訓を交えながら和語の響きを写し取ろうとするその文体は、内なる血縁的・精神的な紐帯を強めるための「和語のナラティブ」でした。

これに対し、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』は、当時の国際共通語であった漢文で書かれた、全30巻の編年体史書です。正格の漢文を志向し、中国の史書編纂を強く意識したその姿は、唐や新羅に向けた外交上の正統化装置として機能しました。「日本もまた、神代から続く正統性と法秩序を持つ国家である」と示すためのものです。

同じ過去を、内には和語の物語として、外には漢文の記録として語り分ける。ここに、二重のメディア戦略の核心があります。

編纂プロセスの動態とテクスト生成の痕跡

もっとも、この二つの書物は、ある時点で一挙に書き上げられたものではありません。その成立には、長い時間と多くの人の手が折り重なっています。

記紀の編纂は、天武朝の端緒から、持統・文武・元明の各朝に至る長期の国家プロジェクトでした。関与した官僚や皇族たちは、その時々の政治的要請や国際情勢の変化に応じて、テクストに調整を加えていきます。天武紀における事績の神格化。持統朝以降の正統性を裏付けるための加筆。有力氏族の台頭や没落に伴う伝承の取捨選択。こうした編集の痕跡は、テクスト内部の緊張として、今も読み取ることができます。

この事業を支えたのが、渡来系知識人でした。大陸や朝鮮半島から亡命してきた貴族と、その子孫たちです。彼らの高度な漢文リテラシー、中国の史書編纂のノウハウ、陰陽五行や仏教に関する専門知が投入されました。それらは、舎人親王や太安万侶といった指導層・実務層の統率のもとで、組織的に結集されたのです。

そして、この編纂の過程が残した最も奇妙な痕跡が、『日本書紀』の「一書に曰く」という形式です。とりわけ神代の巻では、本文のあとに「ある書ではこう伝える」として、異なる伝承が次々と併記されます。国家の正史でありながら、一つの正解に絞り込まないのです。冒頭に掲げた第二の謎は、ここにあります。

受容の現実と周縁の経験

ただし、どれほど周到に編まれた歴史書も、完成と同時に人々の規範として内面化されたわけではありません。

中央の法秩序や歴史的ナラティブが浸透していく過程は、ある人々にとっては、自立的な伝統や地域の記憶が解体され、周縁へと押しやられていくことを意味しました。かつて天武を支えた東国の豪族層や、東北の蝦夷、南九州の隼人といった、征服された人々です。中央が示す神話的秩序は、武力による征服や資源の回収を正当化するイデオロギーとして作用しました。こうして地方社会は、一律に管理される客体へと再定義されていきます。

一方、中央の内部でも、記紀の秩序は万能の安定装置ではありませんでした。8世紀の長屋王の変や藤原仲麻呂の乱といった権力闘争のなかで、『日本書紀』や神話の秩序は、政治的正統性を主張するための「イデオロギー的資源」として利用された可能性が指摘されています。しかしそれは、絶え間ない皇位継承抗争や政治的緊張を封じ込める、絶対的な抑止力にはなりえませんでした。

二つの謎が同時に解けるとき

ここまで、壬申の乱から記紀編纂に至る歴史の諸相を、個別に見てきました。最後に、冒頭の二つの謎に戻ります。

剣を書物に持ち替えた理由

第一の謎を解く鍵は、「正統性の外部調達」による支配コストの低減です。武力で奪った王座は、より強い武力によって奪い返されうる。実力による支配は、常にこうした簒奪の連鎖を抱え込みます。新政権がその地位を保つには、暴力に頼り続けるのではなく、支配を維持するためのコストそのものを引き下げなければなりませんでした。

記紀の編纂や「天皇」号の創出は、個人の属人的な権力を、神話的由来という自らの外にある権威へと接続するものでした。それによって、人々の服従を正統なものとして引き出したのです。きわめて合理的な投資だったと評価できます。

異説を消さなかった理由

第二の謎を解く鍵は、「書き換え不可能な過去」というコミットメント・デバイスです。コミットメント・デバイスとは、経済学や制度論の用語で、あえて後戻りできない縛りを自らに課し、将来の行動を安定させる仕組みを指します。

流動的で不安定な政治的関係を、世代を超えて持続させるには、その場限りの合意では足りません。記紀という固定された過去の物語を、国家の公的な基盤として据えること。それは、支配者層自身をも拘束する歴史観を共有財産とし、次代の分裂コストを抑え込むための縛りとして機能しました。

ここで、先に触れた「一書に曰く」の謎が意味を持ち始めます。過去を固定することと、異伝を併記することは、一見矛盾しています。しかし、諸氏族がそれぞれに伝えてきた祖先の物語を切り捨てれば、正史は、排除された者たちの反発を生む火種になりかねません。

異伝を退けずに抱え込み、すべての氏族を同じ物語の登場人物として位置づける。そう考えると、異伝の併記は固定の論理を弱めるものではありません。むしろ、より多くの人々をその縛りの内側へと引き入れるための、包摂の装置だったと読めます。硬い骨格と柔らかい外縁を併せ持つことで、記紀は世代を超えて持続するコミットメントになりえたのです。

こうして、二つの謎は同時に解けます。剣で得た王座を書物で固めたのは、書物が王座を、力で奪い返されるものから、物語の外へ出られない秩序へと変えるからです。その正史が異説を消さなかったのは、その秩序の内側に、一つでも多くの氏族を招き入れるためでした。記紀、とりわけ『日本書紀』とは、勝者の言い分を記した書物ではありません。諸氏族を登場人物として書き込み、そこから降りられなくする物語の網だったのです。

おわりに:受け継がれた物語と、その代償

記紀のナラティブは、断絶と変容を繰り返しながら、中世から近代に至るまで受け継がれてきました。その統合は、周縁の解体と内部の摩擦という代償の上に成り立っていました。それでも、一度その内側に書き込まれた者は、抗う者でさえ、同じ物語の言葉で争うほかなかったのです。

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