生成AIとの対話を通じて専門外の領域を思索する試みは、発信者個人の認知の枠組みを拡張すると同時に、図らずも「正しさ」をめぐる倫理的な問いを突きつけてくることになりました。
本論では、AIとの協働プロセスで生じた心境の変化をたどり、不完全性を開示して社会の集合知に委ねることこそが、現代の情報生態系における新たな誠実さの形態になり得るという仮説を、論理的かつ構造的に論じます。
「AI時代における素人論考の試み」という実験の現在地
当ブログでは、AI時代における知的生産のあり方を模索するため、「AI時代における素人論考の試み」と題した実験的な取り組みを継続しています。この試みにおいて、私は「問い」を立てて方向性を指し示す漫画編集者の役割を担い、生成AIはその問いに対して膨大な知識ベースから論理を精緻に組み立てる作画・検証の役割を担っています。
具体的には、思想背景や基盤技術の異なる複数のAIモデルを相互に検証させる「マルチエージェント手法」を導入し、特定のAIが陥りがちな出力の偏りや、事実とは異なる尤もらしい説明を行う現象を極小化するシステムを構築しました。私という専門外の人間(素人)が問いを投げかけ、高度な知の循環構造を持つAI群との協働によって導き出された論考を、あえてインターネットという広大な情報生態系に投じ、どのような反応が生じるかを客観的に観測することが、この試みの核心です。
思索の構造化がもたらす「問い」の自律的な蓄積
この取り組みを始めるにあたり、私が最も懸念していたのは「発信を続けるための題材(ネタ)が早期に枯渇するのではないか」という点でした。高度な専門知識を持たない立場から、継続的に社会へ問いを投げかけることには物理的な限界があると考えられたからです。
しかし、実際におおよそ1日1投稿のペースを維持しながら運用を続けた結果、現時点で投稿数は35稿、次回以降の投稿用として控えているストックの数は30稿に達しています。この予期せぬ蓄積の背景には、主に2つの理由が存在すると考えています。
◆協働プロセスの習熟と洗練
AIに対して適切な文脈を提供し、議論を深めるための対話の手続きに筆者自身が慣れ、生産の型が身についたこと。
◆事象に対する認知の変容
一度この客観的な思索の手続きが定着すると、日々の業務や生活の中で目にするあらゆる事象、あるいは些細な疑問が、すべてAIへと投げかけるべき価値ある「問い」へと昇華されるようになったこと。
かつてフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、「問いを立てること、それ自体がすでに創造である」という趣旨を述べました。適切に問いを立てる技術がAIとの対話を通じて洗練された結果、周囲の環境すべてが思索の素材として立ち現れるという、認知のパラダイムシフトが起きたと言えます。
初期における「公開者としての誠実性」とその規範
取り組みの初期段階において私が重視していたのは、論を公開する者としての「責任の境界線」でした。AIが提示した膨大な出力文のうち、筆者自身が完全に理解し、自らの知識体系の中で消化できた内容だけを厳選して記事として残し、理解が及ばない複雑なロジックや、自身の中に原体験として存在しない要素は割愛・削除していました。
この選択の背景には、専門外の人間が公共のWeb空間に向けて発信を行う以上、自身が説明責任を負える範囲に文脈を限定することが世の中に対する誠実さであり、正確性を欠いたノイズを社会に流布させないための防波堤であるという倫理的規範が存在していました。
知の主客反転に伴う倫理的葛藤
しかし、AIとの対話と思索を深めていくにつれ、この従来の誠実性のあり方に対して重大な疑問が生じるようになりました。「私の理解が追いつかない」という極めて主観的な理由を根拠に、複数の高度なAIモデルが相互検証の末に導き出した客観的に正当性があると思われる論理の帰結を、私の独断で切り捨ててしまう行為は果たして本当に「誠実」と言えるのだろうか、という疑念です。
AIとの知的協働は、人間の認知能力の限界を補完し、個人の知の枠組みを超えた景色を見せてくれる点に本質的な価値があります。それにもかかわらず、私個人の認知のサイズに合わせて出力を矮小化することは、AIと共に到達できたはずの「知の到達点」を、私の都合で歪めているのではないかという、新たな問題意識が芽生えました。
実験空間における誠実性の再定義
もし、私が厳密な査読と検証を前提とする学術論文を執筆する立場であれば、自身が完全に理解・実証できていない内容を記述することは、学術的な過失となります。これは先達が築き上げてきた学問への敬意に反する行為です。
しかし、このブログはあくまで「AIと人間が協働した際に、何が起こるのか」を検証するための実験空間です。そうであるならば、人間の先入観というフィルターによって出力を都合よく編集するのではなく、AIとの対話によって立ち現れた成果物を、たとえ一部に私の理解を超えるブラックボックスな領域が含まれていたとしても、可能な限りありのままの姿で提示することこそが、「この実験における真に誠実な姿勢」かつ「先駆的な技術への敬意」なのではないか、という結論に至りました。
2つのフォーマットの溶解と境界の変容
当初、私の理解を超える領域が出現することを見越して、「AIを使って知らない分野を説明してみた」という別系列のシリーズを用意していました。私の理解が及ぶ通常の論考と、理解が及ばない領域を明確に峻別し、世の中にその前提を開示するためのシステム的な境界線(フォーマット)でした。
しかし、さまざまな領域について思索を重ねる中で、この境界線は急速に融解しつつあります。なぜなら、「論の出発点と到達点は十分に理解・納得した内容であるにもかかわらず、複数のAIモデルが議論を修正・洗練していく中間プロセスにおいて、私の知識水準を超える高度な論理が挿入される」という現象が発生するようになったからです。
直近の例で言えば、ドラえもんについて論じた内容については、私自身が理解できない内容というものはほぼ無く、その骨格から肉付けまで私の問いと発想によって形作られたと言って差し支えない内容になっています。
しかし一方で、他の多くの論考においては、その骨格が完成してAI同士でチェックを行う段になった際に、議論した内容をもとにAI同士が作り上げた「発展形とも呼ぶべき肉付け」がされることが増えてきています。例えば、「過去の先人の論との関連性への言及」や「高度な数式に基づいたモデルの作成」などが、それに該当しています。
その結果として、「通常の投稿」と「AIを使って知らない分野を説明してみた」シリーズの差異は、客観的に極めて不明確になりつつあります。
運用の継続と各フォーマットの役割の再定義
今後も、これら2つのフォーマット自体は継続して運用していきます。どちらのフォーマットであっても、「私が問いを立て、AIと共に議論を重ねて結論に至った」という協働の構造自体に変わりはありません。ただし、今後の切り分けと役割の再定義は、以下の通りといたします。
◆通常の論考
展開される論理に対し、私自身が心から、もしくはかろうじて「これは客観的な真実、あるいは妥当な推論に相当するのではないか」と一定の確信が持てた内容。
◆「AIを使って知らない分野を説明してみた」シリーズ
筆者の知識では全て判定しきれない領域まで、AI同士の肉付けが進んでしまった内容。その理解できないという事実とプロセスを、思考の軌跡としてそのまま公開する。
結論:不完全性の開示が導く「最たる誠実性」への仮説
メディア論において、インターネット空間におけるコミュニケーションが最も活性化するのは、最初から欠点のない完璧な正論が提示されたときではない、という指摘がしばしばなされます。むしろ、提示された内容に何らかの不足や検討の余地が存在するとき、あるいは未完成な状態のものをより洗練させるために「他者の知恵を借りる」という文脈(余白)が提示されたときにこそ、社会の集合知や相互協力のメカニズムは最も強く駆動します。
私が理解しきれていない、ある種の中途半端な状態の論考を世に放つ行為は、一見すると発信者としての無責任、あるいは不誠実な対応と受け取られるかもしれません。しかし、自身の認知の限界を素直に認め、AIとの協働プロセスのすべてを隠蔽せずに開示し、その正誤の検証をインターネットという開かれた空間の集合知に委ねること。それこそが、情報過多の時代における「最も誠実なアプローチ」になり得るのではないか、という逆説的な仮説を抱くに至りました。
さまざまなジャンルの発展に関わってきたすべての技術者、先達への敬意を胸に、私はこの実験的な取り組みと合理的推論のプロセスを、今後も淡々と継続してまいります。
