テレビや新聞などのマスコミに対して、「公権力を監視し、真実を報道する正義の味方であってほしい」という願いを持つ人は多いのではないでしょうか。
しかし現実の報道を見渡すと、偏った意見の押し付け、過激なバッシング、あるいは人々の不安や怒りをわざと煽るような扇情的なコンテンツであふれかえっています。
その姿に「マスコミは劣化した」「昔に比べて質が落ちた」と幻滅し、激しい怒りをぶつける声も後を絶ちません。
なぜ、マスコミはこれほどまでに変わってしまったのでしょうか。
その真実を解き明かすためには、彼らが掲げる「あるべき姿(理想)」を一度脇に置き、彼らがどのような仕組みで生きているのかという「実態(構造)」から冷徹に見つめ直す必要があります。
たどり着いた結論から言えば、マスコミは劣化したのではありません。むしろ、何世紀もの時間をかけて、自らの本来の宿命に向けて「完全な姿」へと進化を遂げた結果が、現在の姿なのです。
※一個人が問いを立て、AIとの協働により作成した論考となります。あくまでも仮説であり、正確性・学術性を必ずしも担保するものではありません。その点を理解したうえでお読みいただけると幸いです
始まりは「正義」ではなく「関心の換金ビジネス」
私たちはマスコミのルーツを、市民革命期などの「言論の自由」や「権力の監視」という高尚な理念に求めがちです。
しかし、現代につながる大量印刷・大量消費の「マスコミ」という巨大システムが真に誕生したのは、1830年代の米国ニューヨークで起きた「ペニー・プレス(1セント新聞)」という事象です。
それまでの新聞は高額で、富裕層や政治家のための硬派なメディアでした。しかし技術革新により、新聞を1セントという破格の安さで街頭でばら撒くビジネスが登場します。
このとき、新聞の目的は「社会の啓蒙」から「都市に暮らす無数の労働者(大衆)が、思わず財布を開くコンテンツを提供すること」へと完全に切り替わりました。
紙面を埋め尽くしたのは、高尚な政治論争ではなく、凄惨な犯罪、男女のスキャンダル、怪奇事件といった、人間の本能的な興味をそそる物語でした。そして、この安価な新聞によって集められた膨大な大衆の関心(アテンション)を、裏側で企業に「広告枠」として転売する仕組みが完成します。
これこそが、現代まで続く「アテンション・エコノミー(関心の経済)」の誕生です。マスコミの根源的な本質は、ジャーナリズムではなく、「人々の関心を収穫して経済価値に変えるプラットフォーム」だったのです。
「高尚化の皮」を被った擬態の時代
ではなぜ、私たちはマスコミに「正義の味方」というイメージを抱くようになったのでしょうか。それが、20世紀に起きた「高尚化の皮を被った進化」の時代です。
20世紀に入り、テレビやラジオが登場してメディアが少数の中央組織へ独占・寡占化していくと、マスコミは莫大な利益(超過利潤)を得るようになりました。経済的に圧倒的な余裕が生まれたことで、彼らは「剥き出しの利益追求」を一時的にコントロールすることができるようになります。
彼らは、コストと時間をかけて丁寧な事実検証を行い、「ジャーナリズムの理念(客観中立・権力監視)」という高級な皮を自らに被せました。なぜなら、その高尚な皮を被ることがメディアのブランド価値(信頼性)を最高潮に高め、結果として自分たちの独占的な地位をさらに強固にするという、非常に幸福な経済循環が機能していたからです。
私たちが「かつてのマスコミは信頼できた」と懐かしむ風景の正体は、独占的な利益に守られたシステムが、高度な「正義のナラティブ(物語)」を演じていた擬態の時代だったのです。
環境変化によって剥ぎ取られた「化けの皮」
この幸福な循環を完全に粉砕したのが、インターネットとSNSの登場です。
情報の流通が民主化され、誰もが発信者になれる時代が訪れたことで、マスコミが独占していた「人々の関心の収穫権」は完全に解体されました。全人類がスマホを手にし、無数のインフルエンサーやコンテンツと、24時間体制でアテンションを奪い合う過酷な過当競争が始まったのです。
経済的な余力を完全に失ったシステムが、生き残るために選ぶ道は一つしかありません。
それは、コストも時間もかかる「高尚化の皮(丁寧な事実検証や多角的な視点の維持)」を脱ぎ捨て、最も手っ取り早く、最も打率高く人々の関心を惹きつけられる「本来の野生の姿」へと先祖返りすることです。
ネットニュースのPV(ページビュー)至上主義、感情的な二項対立の構図、特定の個人を徹底的に叩くワイドショーの演出——。
これらは、マスコミの人間が倫理的に堕落したから起きているのではありません。
生存の限界に追い込まれたシステムが、自らのDNAに刻まれた「アテンション・エコノミーへの最適化行動」を剥き出しで行っている姿なのです。
似非宗教に失望した信者たちの反逆
このカモフラージュが剥がれていくプロセスは、社会に巨大な「愛憎の反転」を引き起こしました。それこそが、現在の激しいメディア不信の本質です。かつてマスコミが正義のインフラとして機能していた時代、大衆はそれを「客観的な事実を伝える中立な存在」として疑わずに信じ込んでいました。
いわば、無自覚にその「宗教」の信者になっていた状態です。
しかし、SNSによってメディアの裏側の都合(視聴率やPVのための偏向・演出)が白日の下に晒されたことで、大衆は「自分たちが信じていたものは、高潔な聖職者などではなく、自分たちの関心を金に変えているだけの『似非宗教』だったのではないか」という現実に気づいてしまいました。
宗教の歴史が証明している通り、その宗教を最も激しく攻撃するのは、最初から信じていない異教徒ではなく、「騙されていた」と気づいた元信者です。
現在マスコミに向けられている「マスゴミ」といった苛烈なバッシングや執念深い揚げ足取りは、冷静な批判というよりも、「自分たちの純粋な信仰を裏切られた」ということに対する、強い情念を伴った「異端審問」や「復讐」の性質を帯びています。
社会の醜さを100%の純度で暴き出す「欲望の鏡」
しかし、ここで私たちは、最も過酷で残酷なパラドックスと向き合わなければなりません。マスコミがなぜ、これほどまでに知的な検証を後回しにし、他者のスキャンダルや感情を逆なでする物語ばかりを流すのか。
それは、私たち大衆が、そのようなコンテンツを最も激しく消費し、PVや視聴率という形で彼らに利益を与え続けているからです。
マスコミというシステムは、大衆が「何に最も関心を持ち」「何に感情を動かされ」「どのレベルの娯楽に金を払うか」という市場のデータに対して、寸分の狂いもなく100%の純度で最適化されています。
つまり、マスコミは「社会の真実(客観的事実)」を伝える鏡としては完全に壊れてしまいましたが、「その社会を構成する大衆の『欲望』『知的倫理観』『精神的成熟度』を、一滴の誤魔化しもなくありのままに暴き出す鏡」としては、今この瞬間も完璧に機能しているのです。
画面の向こうに映る歪んだ報道は、メディアの悪意が作り出したものではありません。
彼らを鏡として使いながら、自らの覗き見根性や「見たいものだけを見たい」という認知バイアスを満たしている、私たち社会全体の「内面」そのものが映し出されているのです。
鏡を呪いながら、覗き込むことを止められない人類の宿命
この「欲望の鏡」の恐ろしいところは、鏡に映った自分の顔の醜さに激怒して鏡を叩き割っても、映っている本人の顔(社会の精神的現在地)は何も変わらないという点です。
大衆はマスコミを激しく叩き、制裁を加えることで、あたかも自分たちが正義の側に立っているかのような錯覚に浸ります。しかし、そのバッシングで大騒ぎしているエネルギーすらも、アテンション・エコノミーの中では「最高級の燃料(クリック数)」として、システム側に美味しく換金されてしまいます。
誰も幸福にならず、全員が現状に不満を抱いているのに、その不満こそが燃料となって歯車がさらに激しく回り続けるという、悪魔的な永久機関が完成しているのです。仮に、現在の既存マスコミが経済的に完全に崩壊し、この世から消滅したとしても、社会の歪みは終わりません。
大衆の側に「見たいものだけを見たい」「他者の引きずり下ろしを消費したい」という欲望が残り続ける限り、プラットフォームがテレビからSNSやAIメディアに変わるだけで、全く同じ「欲望の鏡」が次々と自動生成されるだけです。
人間は、自分がどれほど正しい存在であるかを確認するために、外部のメディアという「鏡」を覗き込むことを絶対に止められません。
「本当の自分(社会)は、もっとあるべき美しい姿があるはずだ」という理想への未練があるからこそ、その確認のために、再び鏡の前に立たざるを得ないのです。
マスコミは、誕生から数百年を経て、インターネットという地球規模の神経網を手に入れ、全人類の脳を自らのシステムの一部として取り込む巨大なモンスターへと進化を遂げました。
知能やインフラは神のごとき超高度なものへ進化しましたが、それを駆動させるエンジンは、人間の最も原始的な情動のままです。
マスコミとは、社会の真実を伝える正義の機関などではありません。人間が「あるべき理想」に届かない自らの醜悪さを確認し、呪い、それでもなお自己認識のために立ち戻ることを義務付けられた、現代社会の最も巨大で、最も逃れられない「実存の檻」なのです。
この冷徹な構造的現実のなかに、私たちが生きる情報空間の正体が横たわっています。
